あずあみです。
身近な人がガンと宣告されました。
人の死と向き合う時。
私はいつも、手足の自由を奪われ、無理矢理に首を向けられ、目をこじ開けられ、「これが死だ、見よ」と乱暴に向き合わされます。
大人だから澄まし顔をしていますが、心の中では泣きわめいて地団駄を踏むほど取り乱しています。
私は、死が身近なものであり、誰にでも、今すぐにでも訪れるものだと自覚しています。
しているつもりです。
それなのに、死と向き合う時はいつでも恐ろしいほど新鮮な衝撃を受けます。
胸を圧迫されるような、頭が冷たくなるような、焦点が合わなくなるような。
生物にとって「死」は圧倒的で絶対的な恐怖です。
そのガンは、手術をしなければ余命が1年ないとのことでした。
私の身近な人は、私の大切な人です。
私の大切な人は手術に意欲がなく「このまま死んでもいい」などと言います。
私はどうしても、それを受け入れることができませんでした。
「死にたい」と言う人に対して「あら、そう」と言えないのです。
私は何度も何度も何度もこういった経験をしてきました。
「死なせてくれ」と言う人に「生きてくれ」と伝えてしまうのです。
今回はこのことについて書きます。
もう愚痴に近いかもしれません。すみません。
悪いことをしたら地獄へ落とされる
みなさん知っていますか。
この世で悪いことをした人は、死後は地獄へ落とされるんですよ。
宗教に詳しくない私は、曖昧なことしかわかりません。
とにかく、悪い子は死んでからも罰を受けるために、地獄へ落ちて苦しい思いをするのだということだけ知っています。
私は「死にたい」と言う人に対し「生きて欲しい」と伝えることを繰り返してきました。
あなたの目の前で、あなたの大切な人が静かに「死にたい、死なせてくれ」と泣きながら呟いたとしたら。
あなただったら、何と声をかけるでしょうか。
私と同じように「生きて」と言ってしまうのではないでしょうか。
申し訳ないけれど、生きて欲しい、と。
私は、これはとても罪深いことだと思うのです。
悪いことだと思うのですよ。
なぜか、という詳細はこれから書くとして。
たくさんの「生きて」を伝えてきた私は、もうとんでもなく悪い子です。
罪に罪を重ねた大罪人です。
こんな人間は、確実に地獄行きですね。
地獄行き決定済みアラサーです。
お先真っ暗、というか死後真っ暗、もはや死後地獄へまっしぐら、って感じです。
どうですか、可哀相ですよね。とっても。ね?…ね?
少しでも可哀相と思ってくれたのなら、この先ももうちょっと読んでいってください。
後味悪くなりそうな記事だなぁ、と感じて閉じようとしているあなた、お願いします。
もうちょっとだけ。
死にたい人に「生きて」は罪深い
「死にたい」と訴える人に対して「生きてくれ」と伝えること。
これはとても罪深いことです。(あずあみ論)
なぜそう思うのか。
私なりの意見を以下に述べますね。
罪状①無責任すぎる
「死(終了)」を選択しようとした人に「生(継続)」を選択させるということは、それなりの責任が伴うと思うんです。
例えばですよ。
21時まで勉強をして眠ろう、と決めていた人がいたとして。
その人に「24時まで勉強してくれ」と頼んだとしたら。
21時までと決めていた人にとっては、その意見をのんでも何もメリットがないですよね。
傍から見たら「多く勉強できて良いじゃないか!」と思えても、本人がそう感じていなかったらメリットにはなりません。
本人が勉強よりも睡眠を欲していたら、周りがいくら「良かったね」と言っても、本人は睡眠時間を削られてしまい面白くないでしょう。
「24時まで勉強してくれ」と頼んだ人は、せめて夜食を用意するとか、次の日の朝には起こしてあげるとか、そういった気遣いが必要になると思うんですよね。
本人にとっては勉強よりも大切な睡眠時間を奪っておいて、ただ「24時まで勉強してくれ」と頼むというのは無責任すぎるでしょう。
「死にたい」と言う人に「生きて」と言う。
それだけでは、どうにも無責任が過ぎるよなぁと感じてしまうんです。
人が人のために出来ることなんて、たかが知れています。
どう頑張っても、私はあなたになれない。
あなたもまた、私にはなれない。
死にたがっている人に、いわば夜食を作ったり、次の日の朝起こしてあげたり、そんなことは出来ない場合が多いんですよ。
悲しいけれど。
なので、「生きて」とだけ伝えるのは無責任な悪いことだと思っています。
罪状②エゴ(わがまま)である
本人が望んでいることを、否認する。
「食べたい」と言う人に対し「食べちゃだめ」。
「死にたい」と言う人に対し「生きて欲しい」。
ただ自分がそうして欲しいから、相手にそれを強要する、というのはエゴです。
結構なわがままですよね。
あなたはなぜ、死にたがっている人に生きて欲しいと願うのでしょう。
死にたがっている本人はそれこそ、死ぬほど辛い、死んだ方が楽だと言っているのに。
生きていたほうが良い、なんて、何の根拠があって伝えるのでしょう。
死にたい人に生きてと頼むのは、あなたのわがままではないですか。
目の前の人を亡くしたくないのは、死んでほしくないのは、あなたが悲しいからではないでしょうか。
「生きて」と願う言葉は強烈な言葉です。
まるで「食べたい」と言う人に「食べちゃだめ」と言うどころか「吐いて」と言うほどに強烈な言葉。
この場合の生は、死の否定ではなく、死の反対だと思うのです。
死にたい人が生きようとするとき、そのベクトルは真逆にしなければならないと感じるからです。
そんなにも苦労をさせるのに、自分のエゴで「生きて」と伝えるのは悪いことだと思います。
地獄へ落ちても「生きて」と言うよ
さて、今夜もひねくれているあずあみですが、いかがでしょう。
少しは「まぁ、わかる」と思ってもらえる内容もあったのではないでしょうか。
私は、こんなにも「生きて」と言うことは悪いことだと思っています。
無責任でわがままで、これは地獄へ落ちるに値すると思っています。
それでも、私は「生きて」と伝えるでしょう。
地獄へ落ちるとわかっていても、地獄へ落ちてからでも、死にたいと言う人に「生きて」と言います。
私は、私の知り合った人全員に生きて欲しいんですよ。
大切な人はもちろん、通勤中にすれ違うだけのあの人や、たまたまこのブログにたどり着いたあなたにも、生きていて欲しい。
綺麗ごとに聞こえるかもしれませんね。
でも、たまには綺麗ごともいいでしょう。
世界の綺麗なところが見えずに死にたいと、そう思ってしまうなら。
あなたを私の綺麗ごとだけで生かしたい。
私の綺麗ごとだけを見て、聞いて、生きていて欲しい。
そこまで思います。
私は、祖母を自殺で亡くしています。
彼女は入水自殺だったそうです。
小学生だった私は「顔は見ないであげて」と言われるがまま、最期のお別れもできませんでした。
私は、はとこも自殺で亡くしています。
彼女が亡くなったのは、私と同じ中学生だったこともあり、葬儀は家族だけで行われました。
隠すように、静かに、彼女は葬られました。
私は、もしかすると人一倍、誰にも死んでほしくないと願っているのかもしれません。
私の大切な人にも、あなたにもです。
無責任に、わがままに、私はあなたに死んでほしくないのです。
愛のままに、わがままに、僕が君だけを傷付けなかったように。(わかる人、いますかね)
はい。今回の結論は、
死にたい人に「生きて」ということは悪いことだけど、私はやめない。
例え地獄へ落ちてからでも、生きてと伝え続けます。
ということです。
まず、私は目の前の大切な人から。
もしあなたも同志になってくれるのなら、あなたの目の前の人を。
生かしましょう。
一緒に地獄へ行きましょう。
ありがとうございました。
愛と破壊の戦士あずあみです。
日々の中で感じたこと、考えたことを書き殴っています。
ほろ酔いで読むとちょうどいい感じのブログです。
お酒のおつまみにしてください。
というかシラフで読まないでください。お願いします。お酒を飲んでから来てください。どうか、この通りです。勘弁してください。
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