あずあみです。
私は、以前うさぎさんと暮らしていたことがあります。ネザーランドドワーフっていう、今では少し有名になったうさぎさんです。知っている人も増えたのではないかと思います。
ピーターラビットのモデルでもある、らしいのですが、本当でしょうか?
彼女は、とっても穏やかで、やわらかくて、あたたかい子でした。
太陽のようなジリジリした強さはなく、陽だまりの中のぬくもり。優しい温度。早春の一瞬の南風。
そんなやわらかい体温です。
私は、彼女のような気持ちの良い生き物に触れると、なんとも言えない、たまらない気持ちになります。
同じような人、いるんじゃないかなぁ。
あの気持ち、何ていう名前があるんでしょうか。あの気持ちについて、考えてみます。
溶けて、優しく混ざりあって、蒸発したい
うさぎの彼女は、私の部屋の中で自由に暮らしていました。
私が部屋へ入ると、喜びを全身で表現してくれます。私の足元をぐるぐるぐるっと走り回り、垂直にジャンプして、部屋中も駆け回って。顔を振り回して走るその姿は、もう全身全霊って感じです。
私があおむけに寝転ぶと、彼女は私の上にやってきます。
おなかの上にちょこんと乗り、私の洋服を彼女が座りやすいよう自身で整えると、満足したように腰をおろします。
私は、そんな彼女が愛おしくて愛おしくて、ただひたすらに撫でてやります。彼女の体温でおなかがぽかぽかして、やわらかくて小さくて、私の手に安心しきっている。私のほうも心地が良くなって、すっと穏やかな時間がやってきます。
そんな時、襲ってくるのがあの気持ちです。
なんとも言えない、たまらない気持ち。
夢うつつの、ぼんやりとした眠気をまとった、うっとりと甘い時間。その時間の中に存在するのは、私と、私の上でくつろぐ彼女だけ。
目を閉じると、このまま溶けて、混ざりあってしまうのではないかと錯覚する。
どうせ溶け合うのなら、一緒に蒸発したいという想い。
あの気持ち、なんと呼べばいいんでしょう。
愛しさで溢れる
うさぎの彼女は、私が横になっている時にもやってきたりします。時々、距離が近すぎて呼吸しにくいこともあります。
私の顔のそばにちょこんと座り、まぶしそうに目を細めます。ふるふる、と震え少し歯ぎしりをし、体をぐっと緊張させてから、やんわりとほぐします。
また、私は名前を知らないあの気持ちに支配されていきます。
愛しさが体中に満ちて、溢れそうになる時には、たまらないという表現が適切かもしれません。
すべての内臓を満たし、肘も、指先も、くるぶしも、足の裏も、髪の先までも、全て愛しさで充満して。体の中におさまらなくなって、放出される感覚。目には見えない、エネルギーだけの動き。
これが瞬時に行われるので、たまらない感覚があるのです。
激しい勢いのあまり、私が粉々に粉砕していく感覚。細胞よりも細かく、もっともっと細かく。私を打ち砕いてしまうのです。
幸せ、安らか、尊さ、いやもう言葉にならない、たまらない。
あぁ、この気持ちの名前は何なの!
愛なのか。愛と呼んでもいいのか。
ここではうさぎの彼女を例にしましたが、私は赤ちゃんや、だいすきな人に対しても同じように感じています。動物もだいすきなので、にゃんこやわんこにも感じます。
言葉にならない、たまらない、もうどうしようもない。
この気持ちに名前があるとするなら。
愛なのか。
めちゃくちゃで言葉にならない、この感情を愛と呼んでもいいのでしょうか。
でも、私が教わってきた愛は、私の知っている愛とは、もっと美しく、静かで、じっと見つめるような感情でした。
私の感じているこの気持ちとは、まったくの真逆なのです。
私の感情は、どちらかというと絶対的な力に圧倒され、涙さえ溢れそうになるのです。私はこの感情を前にして、ただただ平伏すのです。
こんな感情を、愛と呼んでもいいのでしょうか。
悩み葛藤した末、たどり着いたひとつの結論は、愛は自由だということでした。
愛は、自由です。
聖母マリアの微笑みのような愛も、
私の感じた衝動的な愛も、
あるいはそのほか様々なかたちの愛も、
すべて愛で、愛は自由なのだ
ということです。
十人十色の愛を知り、愛を理解し、愛を受け入れ、愛を考える。この過程こそ、愛なのかもしれないと思ったりします。
私も、この気持ちを愛と呼ぶことにします。自信を持って。
愛と破壊の戦士あずあみです。
日々の中で感じたこと、考えたことを書き殴っています。
ほろ酔いで読むとちょうどいい感じのブログです。
お酒のおつまみにしてください。
というかシラフで読まないでください。お願いします。お酒を飲んでから来てください。どうか、この通りです。勘弁してください。
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